0mから登る富士山(パートⅡ) 二人のTさんに励ましで登頂

山行実施日;2013年8月25日~28日
参加メンバー;Yo.S、Ky.T、Ka.T

1月27日に駿河湾・田子の浦で汲みおいたペットボトルの海水にいよいよ出番が来ました。海抜0mから登る富士山のパートⅡは8月25日出発と決まりました。

初日は東海道・吉原宿の宿屋に泊まるだけ。二日目からが本格的山登りで、この日は富士根本宮浅間神社(標高500メートル)から新六合目の宝永山荘(標高2500メートル)までの標高差ちょうど2000mを一気に登る計画です。私はこれを登る自信は、とてもなく、途中標高1600メートルのところで旧登山道が富士スカイラインと交わるところでタクシーの世話になるかもしれないと、リーダーのT川さんの了解を得てのスタートでした。          村山浅間神社出発

富士スカイラインに出会ったところまでは心配した倒木も片付けられていて、まだ疲れもなかったこともあり、タクシーの世話になることも言い出しにくく、そのまま旧道に入って行きました。

しかし標高1800mあたりから勾配はどんどんきつくなり、数歩歩いては呼吸を整えなければならないほど。そのうち倒木の連続となりいよいよ疲労困憊。

しかしここまで来ては戻るわけにもいかず、がんばるしかないと自分に言い聞かせてがんばって、宝永山荘が見えてきたときには「ああ、登れた」とホッとしました。

その夜中には強い雨が降りました。これでは計画は中止かと心配しましたが、朝起きてみると上々の天気でした。最初の計画ではこの日は一般登山道を登って九合目の万年雪山荘止まりで、翌朝頂上からご来光を見て降りてくるということになっていましたが、天気がよいので今日のうちに頂上を目指そうということにして、急いで出発。

 万年雪山荘に到着すると、きのうの疲れが残っていたのでしょうか、頂上を目指す元気が出なく「ここで待っているから二人で登って来て」と敗退宣言。しかしT川さんとT脇さんは「荷物を軽くして、登ろうよ」と盛んに激励してくれ、私も「それでは行けるところまで行こうか」という気になって再び登り始めました。

そして、最高峰「剣が峰」に向かう

 以前、吉田口から登った時には最後の一、二合目の登りが大変きつかった記憶がありましたが、今回は意外にも楽に登れました。

さて、今回の登山の重要な儀式があります。最高地点に立つ石碑「日本最高峰富士山剣ヶ峰参七七六米」に田子の浦から汲んできた海水を注ぐことです。ちょうどこの時、どこかの旅行社の登山者の御一行様の到着で周りはごった返していましたが儀式は粛々と滞りなく終わりました。(しかし、ぬかったことが一つ、せっかく田子の浦で詰めてきた海水を家の冷蔵庫に忘れてきた人が約一名でした。)

今回の富士登山はまったく自信がありませんでした。しかし、T川さんとT脇さんの励ましでどうにか頂上に立つことができました。本当にありがとうございました。    (Yo.S記)

九合目の宿に戻り、
それぞれの富士山猪口で乾杯

村山古道パート2高山病を初体験

一度は登りたいが、一度で十分

富士山に一度は登りたいと思っていたが、一般ルートでは面白くない。村山古道があると聞き、登ることにした。1月27日、パート1は5人で、駿河湾の田子の浦の海水を取り、19kmのアスファルト道を歩き、富士根本宮村山浅間神社、標高500mまで歩いた。パート2は、残念ながら3人で登ることになった。前夜泊は東海道の本陣があった吉原本町の創業320年の鯛屋旅館とした。夕食がない。

8月25日、吉原から岳南線の一両編成の電車に乗り、吉原本町で下車、商店街はシャッターが下り、寂れていた。資料館が併設されているということで、早めに鯛屋旅館に着くも応答がない。隣の蕎麦屋の御主人に声をかけるも、資料館はすでになく、ビジネスホテルとなっているため、日曜日には夕食はないという。交渉の末、夕食は準備してくれることになった。時間があったので、富士市立博物館にいった。夕食の蕎麦は旨かった。出発時にもらったファイルには「華密恋の湯・次郎長、鉄舟の定宿、創業320年・鯛屋旅館・一麺入魂、本手打ち・鯛屋」と書かれていた。

村山古道へ
富士根本宮村山浅間神社までは、タクシーを使う。入り口は六道坂、六道とは仏教用語で衆生が善悪の業によっておもむき住む六つの迷界・「地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天」とのことである。10分で、四つ辻にでるが、案内図と矢印が逆になっていた。さらに、林道を進むと「馬頭観世音」が、左の草むらの中にある。林道には鎖がかかり、立ち入り禁止となっている。ここは、御殿場市の特別区となっている。市は基地交付金により森林財産を増やしているのだ。バスも通行可能な林道の終点まで行くと、五辻になり、そこから村山古道が始まると書かれているが、道がない。右折する分岐まで戻る。五辻はないが、テープがあり、踏み跡も確かだ。ここが核心、あとは地図の確認とテープを見落さなければ迷うことはない。村山古道を整備した時は、草刈り鎌では、全く役に立たず、鉈鎌で切り開いたとのことだが、それから、七年、道はかなり整備されている。

標高を確認
多くの林道が横切っているが、そこの標高が記載されているので、現在位置の確認ができる。今回のために、スントの高度計を購入したが、役にたった。一日目の宿泊は宝来山荘、高度2500m、標高差は2000mだ。高度計を見て標高差が減っていくのが楽しみだった。標高840mで最初の村山修験の遺跡、大ケヤキの札打ち場跡に出る。次に、標高1000mの天照教富士山本社に着く。1942年10月、村山古道を登った、冠松次郎は、「ここから見た展望は実に壮大である。右に天子山脈を左に愛鷹山塊を擁して、遠く開けた裾野の彼方に駿河湾、太平洋は杳緲(ようびょう)として、際涯を見ない。ご本殿の後ろから、富士山が一杯に、四合目付近から新雪に美装された麗容の翼を広げている。すこぶる荘厳である。ここからは、赤石岳の最高点だけが新雪に光って見えた」と表現しているそうである。樹木が大きくなり、何も見えなかったが、想像する余裕もなかった。

静岡県立富士山麓山の村へ
ここは、青少年山の家のようなもので、テレビも自販機もない、大自然のなかで生活する。私たちは、ここでトイレを借りた。やがて、中宮八幡堂跡があり、その先に井戸の跡地の窪地があり、原生林の伐採の前には水があったということだ。女人堂跡も見つけられなかったが、女人禁制が解かれたのは、1872年、かって、女性はここから富士山の御利益を願ったという。次に大倒木帯が現れる。1996年の台風17号の爪痕が教訓として残されている。さらに進むと、廃仏毀釈の狂気か、首の切られた石象が四体ある。ここで、標高1860m、後わずかだが、倒木帯が行く手を阻む。宝永山荘に着いたのは15時30分、11時間を予定していたが、大幅に縮めることができたのは、三人の協力した地図読みにある。

一気に山頂へ
2日目は、休養もかねて、9合目まで、標高差900mと計画していたが、万年雪山荘に着いたのが早く、頂上を目指すことになった。登り始めたが、大きく呼吸をしても酸素が足りないような気がして、足が進まない。剣ヶ峰で田子の浦の海水を掛け、お鉢めぐりをする。雲海で下界の展望はないが、富士山の火口は迫力がある。だが、なぜかあくびが出る。やがて、軽い頭痛もしてきた。

高山病初体験だ。万年雪山荘は空いているということだったが、7人押し込む部屋が、5人になったにすぎない。まずは、350ミリ、800円のビールで祝杯だ。この日の、累計標高差1652mだ。さすがに、足に来る。翌朝、宝永火山の横、雲海からの御来光を見て、5合目2400mのバスターミナルまで下る。この3日間の、累計標高差は4652m。よく頑張ったと思う。

世古さん、76歳の快挙、おめでとう!                                       (Ka.T記)

今回のメインイベント
「富士山最高峰に駿河湾からの水を注ぐ」

 

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