楮久保集落を繋ぐ生活道

祝日海の日の暑い一日であったが、古の峠道、山里の生活の匂いがする道跡を辿った。登山道には道標等の類が多く見られるが、そこに生活の拠り所を置く人々が、日々行きかう生活の為の道に、道標など必要性が無いのであろう。横瀬町井戸入本流源頭部標高550m~600m付近には三軒、井戸入右岸尾根、上ノ山(622m)ピークから南南西標高500m~550m付近の楮久保という地名に十数軒、地形図上で、井戸入から西側一本目の西沢右俣標高500m前後に、十軒程の集落が有ったという。下山時、赤谷地区集落で地元の方より、聞き取り調査を行った結果、井戸入源頭部に有った三軒は、昭和中期の頃、大雨が有った日に被害を受け、そのまま下の里に移ったとのこと。また楮久保集落の最後の一軒は、最近まで女性がひとり住まわれていた。

さて文献を紐解いてみれば「秩父丹党考:井上要著より」・・高麗人は、赤平川(左岸)~薪田地区に住んでいた。高麗羊太夫は、現在の芦ヶ久保に移り、楮(こうぞ)の加工をし、和紙を伝えた・・因みに秩父丹党とは、平安から鎌倉時代にかけ、武蔵ノ国、入間郡・秩父郡・および児玉郡にわたって繁栄した武蔵七党の中の一つの武士団のことである。現在、エアリア等で登山道として表記された、赤谷地区から大野峠へ続くコースには、西側へ標識等の無い分岐が多い。その中の幾つかは、古の集落を繋ぐ生活道である。これらの道は、登山道と違い、老若男女全ての人々が行き交う生活の為の道であるので、現在は廃道化が進んでいるとはいえ、崩れていない部分はとても歩き易い。この春、楮久保集落跡を歩いて来たと、地域研究山歩き集団「奥武蔵研究会」のN先輩から聞いた。また秩父丸山には、被っていてとても登れない大きな岩があると、私が30歳代の頃、山の先輩から聞いたことが有った。その岩は苅場岳の岩場とは違い、もう少し丸山寄りに有るとのことだった。地形図とにらめっこをしていると、なんとなく見えてくるものが有った。前記の旧集落を繋ぐ道から入り、西沢右俣と交わる辺りから、右俣源頭部を目指し、上ノ山ピークから北伸尾根の西側を、右俣を遡行するイメージで辿れば、何らかの目星を得ることが出来るのではないだろうかと考えた。三連休初日に二子弓状、二日目は春日部エナジーで登ったので、最終日は少し歩きたいなと思っていた。また今日は単独行になりそうだったので、温めていた計画を実行しようと、東海地区まで梅雨が明けた暑い日だったが、現地踏査を試みた。たぶんこの岩かなという、物凄い角度で被っている大きな岩を見つける事が出来た。上部は緑の苔で覆われているが、グージョンアンカーを設置出来れば、楽しそうなフリークライミングラインを、3つまでは読むことが出来た。地形図記載の集落を繋ぐ破線表記途中から、大野峠を結ぶ弱点ラインは、地形図には表記されていないが、現に道型はしっかりと有った。ただ部分的にほぼ自然に帰ってしまっている箇所もあるので、ここを歩くのには路迷いにそれなりの注意が必要だろう。この道型はたぶん、楮久保集落、西沢右俣集落と、大野峠を繋ぐ生活道だったのだろう。迷ったら登山道の様に、尾根近くを探すのではなく、老若男女、全ての人々にとり、歩き易い場所はどこかに着眼することである。更に丸山全体では、あまり急斜面のない山と思われがちだが、実はそれなりに岩場も多い山でもある。露岩帯に続く土の斜面も、なかなかの急な登下降である。また獣道に目を奪われがちだが、とんでもない崖の上に導かれてしまう事もあり得る。被りの強い大岩は、道型が辿るライン上からは、全く予想出来ない場所に存在した。数少ない情報を地形図に当て嵌めることに依り、見出した結果と、現場合わせの山勘が頼りであった。最近問題になっているフリークライミング岩場のアクセス問題とは無縁の岩場である。開拓出来るものならばしてみたい気もするが、今の私は、新たなルートを開く事より、既存のルートで、自らのクライミングの夢を叶えたい欲求の方が勝っている。少し残念な気がしないでもないが・・・。

楮久保は「カズクボ」と読む。楮とは、和紙の原料の「こうぞ」である。(記 町D)