蝉笹・熊倉山

「もうじき、新蕎麦食べれるっけ、その頃また来てくんな」話を聞かせて貰った寺沢集落の古老から、帰りに秩父弁でそう云われた。杣仕事に鍛えられた声。もう20年以上前のことである。

「三ッドッケ」「酉谷山」「黒ドッケ」「大黒」「天目山稜」

陸地測量部の命名と、奥多摩側の人々の昔からの呼び名、更に秩父側の人々の旧来からの呼称等、この山域のいくつかのピークの呼び名は、何故か未だ落ち着かない。天目茶碗を逆さにしたような、山の形状からその名がついたという天目山。登山地図では「三ツドッケ」と云われる山、または「酉谷山」と云われる山が「天目山」とされている。天目茶碗が日本に伝わったのは鎌倉時代以降なので、ではいつ頃から地元ではそう呼ばれていたのだろうか? だいたいこの山里から、天目山を見ることが出来るのか??

「安谷川」「川浦谷」「大平山」「天目山」「大黒」「蝉山」

それらの地名が囲む一帯は、古文献等を紐解いていくと、以前から一帯というニュアンスの捉え方をされていた。山越えの交易ルートが、「浅間みち」以外にもいくつか存在した事を予想させる。板碑とは、供養塔等として使われる石碑である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、関東地方では見られるものを武蔵型板碑といい、秩父産の緑泥片岩で作られた為、青石塔婆とも呼ばれることがある。戦国時代以降、これらの板碑建立は廃れ、それまで作られたものも廃棄や建築材として転用される事も多くなった。板碑は建立される地方や時期により多様さが見られ、過去の地方を結ぶ交易ルートを探る材料として、その道の学問を志す人々にとり、貴重な資料となっているという。東京農大出身の元沢ヤの先輩と二人で、アマチュア民俗学者気取りで想像を巡らせながら、長沢背稜から大黒、小黒と越え歩いて来た。山・山岳は、登山という冒険行為や、或いは体育・スポーツ的な野外活動という意味だけでなく、山と関わりある生活や人の移動の歴史、地学、鉱物、植物学、動物学、昆虫学など多岐に亘り、様々な場面で、人々と関わって来た。

①山やその麓の地名の表す意味

②戦後の登山ブームでやって来た、他所に暮らす人達が、登山という観点から命名した山名と、地元住民の旧来の呼称の相違などが、私と先輩の研究課題だった。晩夏の陽射しが残る山里で、その思い込めて、聞き取り調査を行った。「子供の頃、地元じゃ蝉山と言ってたな・・」古老の証言の対象とするところは、たぶん熊倉山付近のことである。たぶんと書いたのは、現在は、熊倉山の看板があるピークを、熊倉山と呼ぶが、地元で話を聞くと、蝉笹だけでなく、檜岳(ヒノキダッカ)辺りまでが、蝉山という山体だったのかもという感想を持った。登山という目で見れば、ピークのひとつひとつに、山名があることに違和感はない。しかし山里で、様々な方に聞き取り調査を行い話してもらう内容から、山麓の地元では、山の頂を連ねた纏り感ある一帯を〇〇山と言っている事も多い。因みに「せみ」とは、両側が切り立った狭く細長い地形を指す場合もある。さて「宋屋敷尾根」のこと。秩父丹党、木地師、サンカ(山禍)山の民 朽ちた炭焼の石積、頭の中に、下調べをした言葉が廻っているが、どこまでが史実で、どこからは民俗に対する想像の蓋然性でしかないのか?地元に暮らす方達から、且つての記憶の断片を聞き取り、資料に見つけた片言を、如何に組み立てるのか、組み立てられるのか?

蓋然性・・何を追及したとしても、見えて来た風景が現実のものか否かの、可能性の高まりを確認する術は殆ど残されていない。過ぎてしまった時間の記憶を、いつでも再現出来る程、人の寿命は長くない。潰えてしまった過去の記憶は、無かった事と同然ではないはず。そう思えばこそ、過去を知る事で、より今を充実させる糧にしたい。木を扱うことを生業とする人々が、そこにいたと考えれば、加工する場所の確保、或いは平地に近い箇所まで、加工品を背負い下すルートの確保が必要・・。豊かな林相を持つ尾根と、運び易い、加工し易い場所の確保のファクターを、読図の条件の一つにすれば、今まで見えなかったものが見えてくるから不思議だ。製材作業を全て人力で行っていた当時、わざわざ丸太の状態で、平地の製材所に運ぶより、加工後のものを運搬する方が余程理に適っていたはず。宋屋敷の主は、なぜ?何の目的で? そこに居たのか? だいたい宋屋敷の主は誰だったのか? 宋屋敷と呼ばれていたのは、山中の建物なのか? 我々は、どうしても手掛かりを掴むことが出来ないでいた。板碑は戦国時代には廃れていった。天目茶碗は鎌倉時代以降、日本に伝わったが、当時、他の地方の人々と交流し、天目茶碗という物を、多くの人々が知る事になるには、いか程の月日の経過が必要だったのだろうか?狭い地域内で自給自足的な生活をし、生業の成立も得られた時代と、他の地方との交流否、交易に活路を見出し始めた山里の時代。大災害や大きな戦争等で、地域が壊滅しない限り、時代を作っている時間は、限りない連続性を持ち、且つ少しずつ推移してきたはずである。また大胆に変化した事があれば、その痕跡は多くの歴史的資料に残されているはずである。先輩と私の拠所は常にそこに有った。奥秩父と奥武蔵の境を成す山域で、ちょっとしたバリエーションルートを歩きながらの、如何にもついでの様な緩い研究姿勢ではあるので、見えない答えを求め、夕暮れ近い山里をさ迷う姿こそ、我々には相応しいのかもしれない。山岳雑誌「岳人」のT編集長が憧れを持ち書かれていた。いにしえの知知父の地に存在していたという「童壇」という群族の里。その証に、いつかきっと出逢えることを私達は夢見ていたのかもしれない。蝉山、宋屋敷について、答えと云える手応えが得られていない私が書く文章は、思考の混乱を顕現する様な、纏りのない代物だと反省をするのみである。さて、話を今に戻そう。安谷川林道の支線分岐に車を置き、8月上旬の暑い日に、宋屋敷尾根~蝉笹~熊倉山~日野コース(寺沢コース)と周回をして来た。50の山の正式な報告は、H高さんが書いてくれるとのことなので任せるとする。今回、私以外の3名は、宋屋敷尾根は初めてとのことだ。また熊倉山自体初めてのメンバーもいた。アカヤシオが咲く5月上旬、或いは樹々が色づく10月中旬からが、この山のベストシーズンと云われる。真夏にあの標高の山を歩くことに、みなさん多少の躊躇いはあったと思う。会で取り組んでいる50の山を、進捗させる意味もあり、この季節の計画となってしまったが、いいシーズンにここを歩かせて上げたかったかな・・何十回となく、この山を登っている私などは、夏の姿も、またこの山の季節の移ろいのひとつと考えているから、全く抵抗感が感じないのだが。因みに熊倉山・蝉笹辺りを歩くベストシーズン、私は積雪期だと思う。膝上くらい積もったら、ぜひ登ってみて貰いたい。露岩や岩場の多い山なので、積雪期にはそれなのに注意は必要ではあるが。(記 町D)

期日 8月6日とても暑い土曜日

メンバー:L町D、H高、K藤、樋W

 

 

 

 

 

 

コースタイム

上落合橋8:00-9:00八丁峠9:15-11:00前東岳11:15-12:00両神山12:30-14:00上落合橋