剱岳 タテバイ登らず頂上に ガスで展望はゼロ

山行実施日;2010.07.21-24
参加メンバー;Yo.S

中学を卒業するまで住んでいた伊豆・江間村のちっぽけな一軒家には竈の煙などによって煤けてしまった額に山の写真が納まっていた。山の写真といっても黒い塊のように見えた。母の話では剱岳だという。そのころは剱岳という山がどんな山か知る由もなかった。また母の話では、父は高山植物を採ってきてはそれを育てて花を咲かせるのが上手だったそうだ。父が亡くなるまで住んでいた東京・四谷の家には植木鉢がいっぱい並んでいたのを覚えている。父が剱岳に登ったことは考えられない。剱岳が展望できるところまでいって写真に収めてきたのではないだろうか。そんなことがまつわる剱岳であるが、これまで登るチャンスがなかった。今年は何が何でも登るぞ、という決意を固めて梅雨明けを待ち望んでいた。
剱岳だけを登るなら雷鳥坂から入れば簡単だ。私は雄山から新穂高温泉まで踏み跡をつけてあるので、雄山から北へ剱岳までそれを延長したいと考えルートを決めた。
また、厳しい岩山登りなので私の体力、技術ではとても他人の面倒を見る余裕はないので単独行と決めた。

七月二一日(水)、上越新幹線で越後湯沢へ、そこからほくほく線経由で富山まで3時間余で着いてしまう。しかし富山地鉄立山線の接続が1一時間も待つことになった。それでも15時前には室堂に着いた。第一印象は雪の量が多いということ。きょうは一ノ越山荘泊まりだからゆっくり歩き出す。2006年の夏、立山から薬師岳まで縦走をした時、この道で地元の中学生の集団とすれ違い「こんにちは」コールに閉口したが今日は静かだ。約1時間ほどで山荘に到着、労山会員証を示して宿泊費の1割800円の割引をしてもらって個室へ案内された。まだシーズンが始まったばかりで客は20人もいない様子で、個室を一人で占領できた。缶ビールを持って外のベンチに座ると上の方から騒がしい声が聞こえてきた。例の中学生の集団だった。今回は登ってくる時間が早かったので彼らとすれ違わずに済んだのだった。
夕食の食堂も人がまばらでさびしいくらい。夜中に大雨の音で目が覚めた。でも、朝になったら好い天気だった。

 七月二二日(木)、きょうの予定は立山三山から別山、剱沢小屋を経て剣山荘まで行く、もし10時までに剣山荘に到着できたらきょう中に剱岳まで往復してくる、ということ。6時過ぎに一ノ越山荘を出る。1時間で雄山に立つ。その山頂の社を眺め「よく風に吹き飛ばされずに立っているものだ」と感心する。四年前にお祓いをしてもらったので今日は通過する。大汝山も大したピークでないので通過。富士ノ折立には登ってみることにする。しかし岩だらけの山でペンキマークもないし踏み跡も定かでない。「登るな」ということかとも思ったが、癪なので適当に登ったが、山頂の標識があるわけでもないつまらないピークだった。真砂岳を通って別山に着いたのが10時ちょうど。計画の「10時剣山荘到着」はダメになったのでゆっくりしていくことにする。
剱岳の姿が美しい。雪渓が多いので山の形が引き締まって見える。別山北峰に人が立っている。雪渓を遠巻きに歩いて北峰に立つと剱岳が迫力をもって迫ってくる感じだ。別山の位置から300㍍北東に移動し、8㍍だけ標高が高いだけなのになんという迫力だろう。しばらくその姿に見とれてしまった。別山に戻る。そこから見下ろすと剱沢小屋も剣山荘も見える。計画では剱沢小屋経由で剣山荘に入ることにしてあった。しかし剱沢はびっしり雪渓で埋め尽くされている。下り始めのところはかなりの傾斜だ。出かけるときアイゼンを持っていくかどうか最後まで迷った。そしてアイゼンはウイスキーの瓶に変ってしまった。雄山からここまで年配の二人連れと抜きつ抜かれつやってきた。その二人はアイゼンの用意を始めた。ピッケルも持っており、シャフトは木製で相当使い込んであるようだ。雪渓対応に抜かりがあったのを悔む。安全第一で計画を変更し、剱御前小屋を経て剱御前岳の裾を巻くコースを採ることにする。そこもほとんどが雪渓で覆われているが傾斜は緩い。慎重に下り夏道に出たところで振り返ると例の二人はまだはるか上の方をゆっくり慎重に下っていた。剣山荘には12時30分に着いた。山荘は雪崩でやられて建て直したもので広々していて、清潔感あふれ、従業員の対応も非常によい。

 七月二三日(金)、いよいよ剱岳を目指す日だ。しかしガスがかかり遠景は望めない。5時40分剣山荘を発つ。ほとんどの登山者はもう出かけたようだ。一服剱まで登り、武蔵のコルまで下りさらに前剱まで登る。その途中、岩を掴んでヒョイと体を持ち上げると目の前、一㍍もないところにライチョウがいるではないか。こっちの方がびっくりしてしまった。そこに立ってもライチョウはハイマツの下に入って動こうともしない。
前剱から先が核心部だとガイドブックに書いてある。前剱の先を下ると3~4㍍の鉄の橋が架かっている。幅は30㎝もない狭いものだ。もちろん手摺もない。それを通過すると鎖の連続。平蔵のコルで登りと降りのルートが分離することになっている。しかしここが平蔵のコルだとう表示はない。道なりに鎖を頼りに登りつめると、「ここはカニのヨコバイで降りルートだ」と話しているものがいた。そこを通過してガレ場を少し登りつめると剱岳の頂上だった。8時55分。いままでも鎖や梯子のある山にはずいぶん登ったが、やはりこの山は別格だ。
頂上は意外に広い。晴天だがガスがかかり遠くは何も見えない。しばらく待っていたが変わりそうにない。残念だ。証拠写真のシャッターを押してもらって下山にかかる。カニのヨコバイを降り切ったところで辺りの様子を調べると、雪渓の向こうの岩に「登りコース」と書いてあった。しかし今年は雪渓が多く残っているので対岸に渡る踏み跡が残っていないので皆が間違えたのだ。まだシーズンの始まったばかりで登山者が少なかったので混乱が起こらなかったのだ。
剣山荘に戻ったのは11時45分、これから大宮に戻るのは無理と判断し、剣山荘と同じ経営の雷鳥沢ヒュッテに予約を入れてもらう。剱御前小屋まで登り返す。このころになるとガスも晴れてカンカン照りだ。その中を雷鳥坂を延々と降る。雷鳥沢に沿った道はまだすっかり雪渓の下で雪渓を降る。雷鳥沢ヒュッテ着15時30分。25人部屋を一人で占領(後から一人入ってきた)。ここは24時間温泉に入れるというのが売りになっている。猛烈に熱い温泉を猛烈に冷たい水で薄めて入れと書いてある。

 今回失敗したのは、つばの広い帽子を被ってこなかったことだ。それに二日目は半ズボンで歩いた。だから首の周りと膝小僧が真っ赤になってしまった。果たして温泉に浸かることができるか。湯も水も勢いよく出てくるので適温にするのが難しい。湯を肩や膝にかけてみたがヒリヒリしてとても浴槽には入れない。ぬるめの湯をただかけて汗を流すだけだった。

 七月二四日(土) 地獄谷やミクリガ池を散策して8時のバスで帰途に着いた。今回の当初の計画では剣岳の後、大日岳に登ることにしていた。ところが剣山荘の掲示板に大日平と称名の間で崩壊があり通過できないと書いてあったので中止した。

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