1972年から74年までの山行を纏めた「大宮労山年報No1」がある。ガリ版摺の100ページ近いもので、その巻頭で山本さんが「われら大宮労山」を書いている。事務局長として、作成の中心だったのだろう。山本さんの大宮労山入会は年報発行の3年程前とのことで会創立後5年程経過している。同じ職場にいた番場宏明さん(当時の全国連盟会長、ビッグホワイトピークを目指した日本の第2次ヒマラヤ遠征隊隊員)の誘いだったという。その巻頭文の中で、後から会に合流した自分たちのことを「技術はそれほどではないのに、ヤヤ山ずれしており、ヤヤましな、そしてヤヤ理屈っぽく小うるさい一派」と書いている。会員の多くが、県連や全国連盟の役員として活躍する中、その頃の山本さんは会運営の中心だったと思う。中ア縦走合宿など多くの山行に山本さんの名がある。
私との出会いはその5年後、40年近く前になる。大宮労山への入会の説明をして頂いた時だ。それ以来、岩登り、沢登り、雪山、全て山本さんに教えて頂いた。埼玉と群馬の冬の県境、爺が岳の白沢天狗尾根など、人の行かない山やルートの魅力も教えてもらった。山への交通手段の多くはタウンエース。当時、ワゴン車は貨物用が多く、乗用にはあまり使われなかった。でも、大勢乗れて、安く行けるといって、率先して購入し仲間を山に連れだした。山も面白かったし、車の中の会話も面白かった。山本さんの教え子で前会長の故徳重さんも、北から南まで車を走らせ、会の隆盛を築いたが、徳重さんの行動には、いつも山本さんを意識したところがあった。山本さんには、傍のみんなを魅了してしまう力があった。
そのころ、山本さんは県連の理事長だったと思う。県連の登山祭典、小川山の麓の廻り目平で、山の歌のリードをしながら、右手は4拍子、左手は3拍子で動かしていた。当時は無名だった小川山、今は岩登りのメッカみたいになっている。ワゴン車の乗用利用(今は常識)もそうだが、山本さんには流行の最先端のさらに先を行く先見性もあった。それがみんなを魅了する力だった。
やがて、全国連盟の理事長に就任された。20年程前、労山創立30周年記念で、ドイツの登山家を招いて講演会があった。主催者の挨拶は山本さん。必要なことはすべて、不要なことは一切なし、しかも制限時間ぴったりの素晴らしさだった。聞けば、会長の吉尾さん(?)が挨拶の予定だったのに、急きょ来られず、とっさの交代で話したとのこと、2度びっくりだった。理事長を退いた後も、遭難対策基金(現新特別基金)の管理委員として、労山全体に多大な尽力をされた。
その頃、癌が見つかり、会うことが少なくなった。近年は、県内各地に生まれた9条の会の横のつながりに努力しているとのことだった。儀礼は嫌いだといって年賀状を書かなかった山本さんから年賀状が来るようになったのはこの頃からだ。今年頂いた年賀状には、「後期高齢者!として初の正月を迎えました」とある。嬉しいことなのかと訝ったのだが、病魔に打ち勝ったぞというメッセージなのだとわかり、まだまだ元気な姿にお会いできると思っていたのだが。奥さん、息子さん、娘さんに見守られての安らかな最後だったと、立ち会った嘗て私の教え子だった看護師から聞いた。お別れの会は、ごく内輪でとの本人、遺族の意向にも拘らず、会場定員70名の2倍以上の人が献花に訪れ、別れを惜しんだ。みんな山本さんに魅了された人たちだった。大好きだった山本さん、本当にお世話になりました。安らかにお眠りください。大宮勤労者山岳会会長 (記 O野 和夫)
山本辰平先生との思い出
7月2日、外出から帰宅すると岡野会長からFAXが入っていた。山本辰平さん(以下「先生」と記す。)の訃報が記されていた。数年前、全国連盟事務所での監査[当時、先生は遭難対策基金(現・新特別基金)の委員でありました]でお会いし、終了後、先生の車で私の自宅まで深夜に送っていただいたのが最後でありました。 体の具合が良くないようだと聞いたことがありましたが、75歳というお歳で亡くなるとは、残念でありません。もっともっと私たち後輩の山への指導や楽しみを教えて欲しかった。 さて、少し先生との出会いや想い出残る山行を期します。なお、年月、地名等、不正確や山行の時期が前後しています事、ご承知ください。私が大宮勤労者山岳会へ入会したのは、1972~3年(昭和47~48)3月頃、先生とお会いし入会しました(労山については、事前に知っていました)。先生は、大宮商業高校で音楽教師であったと思います。
最初の山行は、翌年4月に先生とY会員(女性)の3人で谷川岳へ電車で行く。
雪も豊富で西黒尾根に取り付く。ラクダの背付近から傾斜も急になり、わずかなトレースを踏み外さないよう、キックステップとピッケルで慎重かつスピーディーに進む、時々先生の指示や注意を聞きつつトマの耳に無事登頂する。下山は天神尾根で熊穴沢避難小屋へ、ここからイワオ新道経由で、谷川温泉へ下山した。後日、先生に尋ねると、ハッキリとは言いませんが、この山行で私の力量を試したようです。4月初旬の浅草岳、先生と二人で電車・タクシーで入叶津へ。平石山は北東側が崖(主に土)で、少し先に尾根へ出る登山道があるが、先生が「どうだ、この壁を直登しようぜ」。私も同意する。初めは緩い草付きだが最後の100m程は急斜面となり、ピッケルと手指を土壁に差し込み手がかりにし、登ることとなった。台地上に抜けると、ピッケルと手指が泥だらけで閉口する。雪渓を詰めて、浅草岳頂上へ。更に、鬼が面山を経て六十里峠へ。正面の毛猛山が素晴らしい。いよいよここから恐怖のトラバースが始まった。先生が先に急な右下がりの雪面に入る。左は南岳、鬼が面山の壁、右下は田子倉湖である。国道は雪の下、ここからスリップしたら、雪面が滑り台となり湖まで止まらない。時々、ブロックも落ちてくる。必死のトラバースもようやく終わり、田子倉駅に着いたときは緊張が途切れ、へなへなであった。5月連休の谷川岳・幽の沢での春合宿では、雪上訓練が主体で、キックステップによる登下行や滑落停止、ザイルを組んでの訓練を行った。夕方、私とO会員は、土合橋まで買い出し(お酒)に行かされる。往復3時間余りだったが、帰りを心配してか先生がヘッドランプを点けて、途中まで迎えに来てくれました。夏合宿は、北ア・剱岳への集中登山(真砂沢テント場集合)だ。1班は、室堂~一ノ越~立山~真砂へ。2班は、芦峅~称名ノ滝~コース。3班は、黒部第四ダム~内蔵助平~ハシゴダン乗越コース。4班は、先生(CL)、SI(SL)、SAIと私の4人で、白萩川・本渓直登~大窓(テント泊)~池之平山~真砂コースである。
私のザックは、片桐製の大型キスリング(横長)に、共同装備を含め、約30kgと非常に重い。従って、白萩川の岩から岩への飛び移りは、ヘルメットを被り飛び移る。当然、ザックの重さと勢いで逆さになってしまう。まるでカメがひっくり反ってバタバタ。3人は大笑い。いよいよ核心部である。先生がじっくり観察し、一番若いSIが先頭、次が私で大滝の右をアタックする。壁は、砂岩と安山岩混じりのようだ。手がかりの岩がスポッと抜けるので、元に戻してそっと抑えて、一歩一歩慎重に・・・左下には大滝の水流と音が入り混じる。最後尾から先生の激励の声が何度も聞こえる。悪戦苦闘の末、ハイマツ帯に入り、全員、ホッとする。ハイマツ帯も厄介だ。枝が下を向いていて、ザックに引っかかるし、手はマツヤニでベトベトだ。それでも枝を掴めるので安心だ。やがて、待ち望んだ大窓に到着する。テントを張るには、広さが足りないので、ザイルや細引きを利用して、安定させる。天気も良く、コーヒーを煎れて日本海に沈む夕日に全員喜ぶ。CLの先生に皆感謝する。以上、まだまだ思い出は沢山ありますが、誌面の都合もあるので、またの機会に致します。上記の山行でも解るとおり、先生は、人間として、他人を気づかい、大事にし、時には大胆に、また経験豊かなキャリアで正しい方向を指示や指導をするなど的確でありました。
私が全国連盟のお手伝いをさせて頂いたのも先生が、「小杉君、全国連盟の役員が少なく、東京の勤め帰りに本部(当時は、神楽坂)寄って今後の課題に意見を言ってよ。」・・・先生も苦労している時期でした。と言われ、先生の力に少しでも役に立つならばと・・・初めは、海外委員会で海外の遠征手続きや管理、海外登山集会の開催(埼玉、大阪、長野)、その後には監事(主に会計監査)にと、お手伝いし、山岳関係の著名人との歓談や、世界の登山の方向や記録など、私自身も成長させていただきました。完全退職を機に全国から私も離れました。先生、本当にお世話になりました。安らかにお眠りください。(記 大宮勤労者山岳会会員 K杉)
会員の山本辰平さんが7月1日に亡くなられました。山本さんは、1970年ころ大宮労山に入会されました。事務局長、会長などを務められ、1980年ころの数年は埼玉県連理事長、1990年ころの数年は全国連盟理事長を務められました。その後の数年は副会長や遭難対策基金(現在の新特別基金)の管理委員なども務められ、労山の活動に貢献、ご尽力されました。ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。