2017年11月1日
前年、キリマンジャロに遊んだおりに、下山してからタンザニアの三つの国立公園・自然保護区でサファリをした。その一つの国立公園はアフリカ大地溝帯(Great Rift Valley)の中にあり森林と湖沼で構成されていた。大陸の北にはじまりモザンピークまで南北に走る大地溝帯はアフリカを東西に裂き、地溝帯に沿って大河が流れ、巨大な湖沼が点在している。大地溝帯の縁は斜面である。縁の斜面に断層が露出し、地溝帯の内は比較的湿潤で植生は豊かであった。
アフリカ大地溝帯が人類の偉大な旅・グレートジャーニーの出発点ならパタゴニアは終着点である。少年の頃から本に読み、地図に旅したグレートジャーニー。大足の人パタゴンが棲んでいたというパタゴニア。一度は行ってみたいところパタゴニア。地球の裏側にあり遠すぎて訪れるのも容易でない所であった。70歳をすぎて人生の残りの日々は少なくなり、あの世に行く前に訪れたいと思うようになっていた。
パタゴニアは一人旅であった。往路でさんざんな目にあう。American Airline(AA)でダラス・フォートワースを経由しブエノスアイレス行きに乗り継いだ。夕刻、ダラスを離陸した。夜間飛行で、朝にはブエノスアイレスに着く予定であった。機内食のあと、休んでいた。どのくらいの時間が経過したのか定かでないが機内放送があった。飛行機はダラスに戻るとのことだった。
夜中にダラスに戻った。AAの手配で空港内のHyattに泊となった。Hyattは実に豪華なホテルであるが、こちらはそれどころではない。翌日の、ブエノスアイレス発El Calafate行きの飛行機のキャンセルの連絡、替わりのフライトの確保、カラファテの宿への連絡、旅程の組み替えなど、幾つかの重要な事項を片づけなければならない。宿にはメールを入れ、カラファテの旅行会社には遅れを伝えた。
しかし代替えのEl Calafate行きのフライトがとれない。AAに対処を依頼したがAAは受けてくれない。チケットの目的地(ブエノスアイレス)まで運ぶのが仕事です、そこから先は関係ありません、と木で鼻をくくった応対であった。ブエノスアイレスから先はAAのグループには属していないアルゼンチン航空の便であった。(ブエノスアイレス以遠もワンワールド・アライアンス加盟の航空会社にしておけば、こうはならなかったのかもしれない)
一日遅れてブエノスアイレスに着いた。フライトを確保できたのは二日後のこと、予定外でブエノスアイレスに2連泊した。
El Calafate空港は小さな地方空港である。到着したものの、今度は旅行会社の迎え人がいない。全くのスペイン語の世界である。どうしよう。旅にでる前の一ヶ月間、スペイン語を勉強したが、出来るのは挨拶と単語を読めるくらいしかできない。困っていると英語を話す人が現れて通訳して下さる。助かった。彼もEl Chaltenに行くとのことで、バスを手配してから世間話しして過ごす。彼はアルゼンチンで生まれ育ったユダヤ教徒でモーゼ像のような髭貌であった。あれこれの職業にかかわり、今は米国を拠点にコンピュータ関係の仕事をしており、パタゴニアの魅力に惹かれて何回かここを訪れているとのことである。
空港からEl Chaltenまでの距離は約200KM。をマイクロバスは飛ばした。周囲は荒野で対向車もまれ。パタゴニアは春だった。パタゴニアは南米大陸の南の果ての寒い国、と想像していた。しかし11月の初旬だが、来てみると日本の春とかわらないくらい暖かく快適であった。マイクロバスはビエドマ氷河がそそぐビエドマ湖の東面に沿って進んだ。湖面はおだやかで、崩壊して流出した氷塊があちらこちらに浮いていた。
エルチャルテンにはFitz Royの山麓をめぐる幾つかのトレッキングコースがある。自分はHosteria El PilarからRio Blanco(ブランコ川)に沿って遡上する道を選んだ。旅の準備においては本やネットで情報を仕入れる。最悪の想像もする。例えば、もしアメリカライオンに遭遇したら・・・とか。幸いなことに不安な想像は当たらなかった。トレッキングコースはよく整備されていた。荒涼たるパタゴニアの中にあって氷河を水源とする川に沿ったコースは、「風ふき荒ぶパタゴニア」のイメージとは異なり、穏やかでパタゴニアの原生林の中をいくようで快適であった。鹿や兎には出会った。トレッカーに出会った。彼らは米国、カナダ、オランダ、フランス、ドイツなどから来ているとのことであった。
Fitz Roy東面の氷河などを水源にするブランコ川には乳白色の水が流れていた。谷間の原生林の中の小径の不思議さに感心していると、ときどき大音響が轟く。「Avalanche!」と話す人がいた。しかしブランコ氷河を観察しても雪崩の様子は見当たらない。多分、谷を埋める氷河の内側で崩落現象が発生しているのだろう。
ブランコ川をはさんでFitz Roy の東面と対座した。Fitz RoyやPoincenotの岩峰が青空に聳えている。Fitz Royは、大きくみればアンデス山脈の一員であろうが、アンデス主山稜の東を南北に走るパタゴニア山脈の盟主である。パタゴニア山脈の西面の谷はアンデス主山稜まで広大な氷河で埋められている。
書物によれば「Fitz Roy」とは先住民の言葉で「煙を吐く山」とのこと。激しい気流が岩峰に衝突して水分が凝結し、山頂があたかも煙を吐いているように見えることからこのように呼ばれたらしい。その先住民は殲滅され存在しないが「煙を吐く山」はある。Fitz Royはなかなか姿をあらわさない山とのことであるが、11月のこの日は天候にめぐまれ存分に撮影することができた。
さて、グレートジャーニーの末にパタゴニアにたどりついたモンゴロイドはどんな生活をしていたのだろうか。何を食していたのだろうか。それらが疑問であった。疑問は歩いてみて解けたような気がする。じっさい、ここには少なくとも鹿がおり、兎がいる。乳白色の川や氷河湖には巨大な鱒類がいる。農耕はできなくとも、狩猟・漁労により食料は確保できたであろうと想像された。
人類のグレートジャーニーは何波にもわたってベーリング海峡をこえて新大陸に進んでいった。ガイドの話によれば、パタゴニアだけでも先住民の言語は少なくとも7種類はあり、それらは全く互換性がなかったとのことだ。数百年、数千年の間隔をもってさまざまなモンゴロイドの集団がアメリカ大陸にひろがり、南下していったのであろう。
しかし、アルゼンチン側のパタゴニアには現在ほとんど先住民はいない。チリがわのモンゴロイドは混血しており、純血は僅かに残存しているらしい。ふりかえれば15世紀からのヨーロッパ人の侵略はすさまじいものであった。ラス・カサス著「インディアスの破壊についての簡潔な報告」には侵略のすさまじさが描かれている。ヨーロッパ人は鉄砲と酒とキリスト教をもって南北アメリカ先住民を征服し殲滅したのである。
Y崎
Cerro Chalten o Fitz Roy 3405m & Cerro Poincenot 3002m in Patagonia